教えのやさしい解説

大白法 510号
 
三度の高名(さんどのこうみょう)
「三度の高名」とは、日蓮大聖人の三度にわたる国家諌暁(こっかかんぎょう)をいいます。
 『撰時抄』に、
 「余(よ)に三度のかう(高)みょう(名)あり」(御書 八六七頁)
とあるように、大聖人は当時の為政者(いせいしゃ)である幕府(ばくふ)要人(ようじん)に対し、一切の邪宗を禁断(きんだん)して、唯一(ゆいいつ)の正法(しょうぼう)である法華経に帰依(きえ)しなければ日本は滅(ほろ)ぶ、と三度にわたって諌(いさ)められました。
 一度目は、文応(ぶんおう)元年七月十六日、幕府の最高実力者である前執権(ぜんしっけん)・最明寺(さいみょうじ)入道時頼(ときより)に対する宿屋(やどや)入道を通じての『立正安国論』の提出です。
 大聖人は、この時、宿屋入道に、
「禅宗と念仏宗とを失(うしな)ひ給ふべしと申させ給へ。此(こ)の事を御用(おんもち)ひなきならば、此の一門より事をこりて他国(たこく)にせ(責)められさせ給ふべし」(前 同)
と仰せられ、同時に最明寺入道に対しては、禅・念仏等の邪宗への帰依が三災(さんさい)七難(しちなん)の原因であり、これらの邪宗を急いで対治(たいじ)しなければ自界(じかい)叛逆(ほんぎゃく)・他国侵逼(しんぴつ)の二難は免(まぬが)れないと警告(けいこく)されました。
 二度目は、文永(ぶんえい)八年九月十二日、大聖人を捕(と)らえにきた平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)頼綱(よりつな)に対する諌暁です。この時、大聖人は頼綱に向かって、
 「日蓮は日本国の棟梁(とうりょう)なり。予(よ)を失ふは日本国の柱橦(はしら)を倒(たお)すなり」(前 同)
と喝破(かっぱ)され、今に自界叛逆・他国侵逼の二難の現れとして、同士討(どうしう)ちや他国の兵による殺戮(さつりく)などが必ず起こること。そして、すべての邪宗の寺を焼き払い、邪僧等の首をはねなければ、日本は必ず滅ぶことを強硬(きょうこう)に説かれました。
 三度目は、文永十一年四月八日、佐渡配流(はいる)を赦免(しゃめん)されて鎌倉へお帰りになり、頼綱の召喚(しょうかん)に応じて対面された時の諌暁です。
 大聖人は、念仏・禅に加えて、特に真言宗こそ災いの元であり、蒙古(もうこ)退散(たいさん)の祈祷(きとう)を真言師にさせるならば、いよいよ国が滅ぶと諌められました。
 その時、頼綱は大聖人に「蒙古はいつ攻め寄せてくるか」と問うと、大聖人は、
 「経文にはいつとはみへ候はねども、天の御気色(みけしき)いかりすくなからず、きう(急)に見へて候。よも今年はすごし候はじ」(前 同)
と、年内の蒙古襲来(しゅうらい)を予言されました。同抄に、
 「外典(げてん)に云はく、未萌(みぼう)をしるを聖人(しょうにん)という。内典(ないでん)に云はく、三世(さんぜ)を知るを聖人という」(前 同)
とあるように、「三度の高名」における予言は悉(ことごと)く的中(てきちゅう)し、経文に説かれた種々の災難が日本国中に競(きそ)い起こりました
 謗法に執着(しゅうちゃく)する毒気(どっけ)深入(じんにゅう)の為政者たちが、この厳然(げんぜん)たる現証を目(ま)の当たりにしながらも、なお大聖人に帰依することができなかったように、現代においても正法(しょうぼう)を誹謗(ひぼう)し、邪宗教に毒された不幸な人々が多く充満(じゅうまん)しています。
 私たちは、大聖人の兼知(けんち)未萌(みぼう)の御仏智(ごぶっち)を深く拝すと共に、破邪(はじゃ)顕正(けんしょう)の強い精神と行動をもって一切の邪宗教を破折していくことが肝要です。